平成17年度文化庁国際芸術交流支援事業/日韓友情年2005
【日程】
ミリャン
7月30日(土)・31日(日) 密陽市民広場
ナムヤンジュ
8月5日(金)・6日(土) ヤンピョン広場
ソウル
8月11日(木)〜13日(土) 汝矣島漢江広場
大邸
8月19日(金)・20日(土) トンチャン広場
全州
8月25日(木)・26日(金) ヤンコクソリ文化伝統館前
アサン
8月31日(水)・9月1日(木) 湖西広場
束草
9月6日(火)・7日(水) エキスポ広場
(いずれも特設紫テント)

●STAFF     ●CAST  
プロデュース 馬 政熙
教授(元宇都宮少年自衛隊航空分校長)
コビヤマ洋一
舞台監督 八重樫慎一
乱腐
松岡哲永
照明 泉 次雄+RISE
淫腐
広島 光
  尹 美愛
珍腐
米山訓士
  安 成鎭
織部
大貫 誉
  金 東煥
エリカ
近藤結宥花
舞台美術 大塚 聡+百八竜
夜の男
黒沼弘己
殺陣

佐藤正行

風の商人〜宮沢先生
大久保 鷹
振付 大川妙子
桃子
三浦伸子
劇中歌作曲 安保由夫
梅子
梶村ともみ
  大貫 誉
死の青年〜高田三郎三曹
近童弐吉
音響 N-TONE
死の少年
沖中咲子
協力 黄 大鉉
女医・尼
渡会久美子
  柳 盛木
航空学校教官

金 守珍

  Denny
看護婦・尼・少年兵
草野小夜架
  上原弘之(劇団1980)
池田実香
  小出康統(劇団1980)   目黒杏理
  大熊康弘(劇団1980)    
制作 新宿梁山泊事務所    
韓国制作 李 康先    
  牟 裕英    
照応する言葉と肉体 新宿梁山泊『唐版 風の又三郎』韓国ツアー
樋口良澄 藍Blue20号より

 東アジアの文化交流は「交流」から「競作」「共作」といった局面に進んでいる。この「藍Blue」も日中バイリンガルで、私たちはもはや一つの言語に閉じ込められた発想では生きられないことを思い知るのだ。パソコンの翻訳ソフト、また現場での豊富な体験を経た翻訳者の存在によって、言語は越境はたしかにたやすくなった。だがたやすくなった分、私たちは「翻訳」のパラダイムに傾斜しすぎてはいないだろうか。
 この夏、日本の劇団新宿梁山泊が劇作家唐十郎の『風の又三郎』を一ヵ月以上にわたって、韓国各地でテント公演した。8月12、13日のソウル公演では日本から唐十郎もかけつけ、出演する。この作品は宮沢賢治の『風の又三郎』とギリシャ神話のオルフェウスを素材にしながら、歴史と現在、生と死の世界が交錯し、愛するものの再生と救済を描く3時間あまりの作品だ。その長さと複雑な構造ゆえ、韓国の観客の反応が懸念されたが、私の見たソウルとテグの公演では観客はきわめて熱かった。特にラストの水の奔流と虹の照明のなか、ゼロ戦にのって主役の織部(大貫誉)とエリカ(近藤結宥花)が去っていくシーンでは満員の観客が総立ちで拍手、感動と驚愕さめやらない様子だった。新宿梁山泊らしい、力強い叙情性、スピード感ある演出は韓国の観客の心をつかんだようだった。
 この作品は1974年の初演当時、日本各地を巡演したあと、同じ年の7月からレバノン、シリアのパレスチナ難民キャンプでアラビア語で上演された。出発にあたり唐は空港で「文化とは闘争の結果であり、その記憶のパノラマだと信じる我らは、日本河原乞食として培った紅テント劇場の総体と内容を、パレスチナの人々の前に暴虎憑河の勇気をもって提出したい」と決意を示した声明を発表している(『紅疾風』学芸書林)。その公演に参加し今回の韓国公演にも出演した俳優大久保鷹の証言によれば、銃をもったコマンドが客席につめかけ、異様な高揚のなか行なわれたという(唐による体験記は『風にテント、胸には拳銃』角川書店に詳しい)。
 日本と韓国の現代演劇の交流の歴史に大きな影響を与えたのは、1972年の唐による『二都物語』韓国公演だった。新宿梁山泊じしんも韓国公演はこれが3回目で、私も12年前の『人魚伝説』は、深い印象を残している。同じ漢江の川原で公演したその公演は、韓国の現代演劇人にとっても大きな意味をもち、今回の招請側にもそのとき観客だった人々が深く関わっているという。唐十郎の代表作の一つといわれるこの作品を座長で演出家の金盾進は2003年から発表し続けてきた。戯曲も演出も歴史を潜り抜けた中、金は韓国公演にあたりどのような戦略をたてたのだろうか。
 今回の韓国公演が『人魚伝説』のときと大きく違ったのは日本語と韓国語のバイリンガルで上演されたことだ。観客はテントに入るとまずハングルで書かれたシノプシスが客席の上にかかっているのを目にする。俳優は日本語と韓国語を両方操り、時に一連のセリフの途中からスイッチする。頭上と舞台袖左右に出された紙芝居風字幕は、シノプシスと重要はセリフを訳したもので、舞台の進行につれてめくられていく。しかも幕間にその幕のあらすじが朗読されるのだ。
 日本で外国の演劇を上演する場合、全編を翻訳した翻訳劇か、字幕を舞台そでや上部に流す方式が一般的だろう。また日本語以外の言語を混在させる公演は、寺山修司や鈴木忠志ら「前衛」の作家たちからはじまって、近年の平田オリザや野田秀樹まで、演出として試みられている。しかし、今回の梁山泊の方法は、二つの言語を自在に往還する新しい試みだ。役者はあるエピソードを韓国語で演じ、次の瞬間日本語で演じる。時にはセリフは途中から言語をスイッチする。韓国語のわからない私は日本語部分の余韻のなかで、役者の肉体と言葉の響きを追うことになる。日本語部分も韓国語部分によって相対化され、外国語のように聴こえるのだ。二つの言語は、一つの流れとなり、その底に第3の言語ともいうべき声が現出される。
 日本語部分のわからない韓国の観客はどうだったのか。この韓国公演をプロデュースした馬政熙さんによれば、「今回の韓国公演では、シノプシスと重要なセリフのみ訳した。全部内容を理解させようと試みるよりは、感覚で感じてほしかった。この芝居は歌や踊りがあり、場面転換がはやい。スピード感ある演出についてくるようにした。観客は日本語の響き、リズムを楽しんでいたと思う」という。舞台と字幕を見比べながら「理解」するのは、リアリズム的な演劇ならまだしも唐十郎の舞台にはそぐわないだろう。異質なものを暴力的に出会わせ、それを接続し、応答する力にかけること。翻訳文化の中で、異質なものの中にある応答する力を私たちはみすごしてはいないだろうか。あるいは、100万部近く売り上げた『電車男』のような、閉じられた内輪のサークルの中でその力を消費してはいないか。しかし異質なものと真に出会うのは実は難しいのだ。それは唐のいう「闘争」のことなのかもしれない。
 宮沢賢治とほぼ同時代に生まれたベンヤミンは、「翻訳者の使命」(1921)で、翻訳を単なる伝達をこえた、創造と批評の問題として論じ、ひとつの言語に異物をもちこみ、自己と他者をともに更新していくことこそ翻訳の重要な役割であると論じているが、このあまりに有名な翻訳論に先立ち、異質な言語同士にある、照応関係(コレスポンダンス)に着目することの重要性を説いている(「類比性と周縁性」1919)。やがてベンヤミンはそこからすべての言語に通底する普遍言語を導き出すのだが、その神学的議論はさておき、伝達可能性の外側に翻訳の問題を設定したことを、グローバリゼーションの時代に生きるわれわれはもう一度考えてみる必要があるのではないか。
 手書きの字幕から役者の発語まで、在日二世の金は演出の要素と考えていたようだ。さまざまな制約がある現場の作業の中で模索された、挑発的なバイリンガルの演出は、金が二つの言語の間を生きる存在であるということと無関係ではあるまい。梁山泊という劇団じたいが長い時間をかけて、韓半島と日本の問題を追求してきたのであり、その蓄積のなかで韓国の観客をも熱狂させる応答の力を獲得していったのであろう。この公演は日韓の演劇史に残る事件といってよい。
 明示的なものをこえる照応関係について、賢治の「心象スケッチ」の成立をめぐって天沢退二郎が「典拠とか源流とかを探るこれまでの研究は私たちに多くのことを教えてくれるけれども、そのような研究の基礎は、そういった書物を賢治が読んでいたことを前提とする。しかし、ある時代における言語的情報の交錯と成立はもっと深層的であり、多種多様、多構造的である。1920年代賢治をめぐる思潮は、人間の意識と世界のとの照応、そしてアインシュタインやマルクスによって明らかにされてきた宇宙や社会の法則の中で、人間の精神活動がいかに創造的におしすすめられるかが模索されていた。(中略)賢治がまだ直接間接に読んだり触れたりしなかった可能性の大きい同時代の営為、ジョイスの「意識の流れ」やプルーストの無意識的記憶の追求、アンドレ・ブルトンの無意識的思考の書取りとしての自動記述などが深く交差し照応しあう、1920年代の思潮の渦の中で、賢治の心象スケッチの方法が誕生し」たと書くのを読むとき(「宮沢賢治詩集」新潮文庫)、文化の「交流」を重層的な照応関係としてとらえなおしたくなる。
 賢治の『風の又三郎』の草稿には又三郎が教える、サイクル・ホールという現象が出てくる。何人かの人間が急速に回転し旋風をつくり、その旋風にのって日本国内はおろか、シベリアや揚子江にもいくという賢治特有のビジョンだ。現在の私たちは物理的にも、情報的にも世界中をたやすく移動できるが、そこでどのようなビジョンを獲得できるかはまた別の話だろう。

【緊急報告】新宿梁山泊『唐版 風の又三郎』、韓国テントツアー!
新井高子

 この夏、劇団・新宿梁山泊(演出 金盾進)が、唐十郎のド傑作『唐版 風の又三郎』を掲げて韓国各地を巡回している。密陽、ナムヤンジュ、ソウル、大邸、全州・・・。会場は川辺のテント。酷暑の中、11トントラック4台、4.5トンクレーントラック1台、大型バス1台を、演出家自身も運転手の一人になって移動させる大旅行の上に、数百人の観客を抱えることのできる紫龍テントを一週間ごとに張っては畳む大仕事を繰りかえす興業など、想像しただけでも気が遠くなりそうだが、これを約2ヵ月に亘って展開している。芝居について文をしたためるのはこれが初めてだが、数少ない日本からの観客の一人として、今号はぜひ、その「追ッカケ緊急報告」を書きたい。
 私が見たのは、8月12日(金)、13日(土)のソウル公演、19日(金)の大邸公演の計3回。短期間の内に3回も足を運ばせてしまう自分が大邸ではさすがに恥ずかしくもあったが、「もう一度見たい」という欲望を押さえることができなかった。昨秋、新宿梁山泊による同じ公演を見たときもそれは十分面白かったはずなのだが、この韓国公演は一層磨かれている、梁山泊のスケールの大きいロマンチズムと、軽妙かつ猥雑な諧謔精神に、戯曲の深層を這いずりまわって繋がれる意味のリアルが加わったと言えば良いだろうか。この劇団特有のおおらかなノリの良さ、スペクタクルなジャンプ力、それを持続したまま、その足の下で、ひたひたと、じめじめと、自らの流路を探す地下水のように登場人物たちの「思い」は継がれ、やがて錯綜、起爆する。人間の嫉妬、不安、憧れ、意地、悔恨・・・がよりリアルに、鮮明になることで、終幕の飛翔は一際高らかになった。ソウル公演では、総立ちとなった観客たちの拍手喝采が、幾度もアンコールを呼び掛けていた。
 まず特筆しなければならない役者は、何と言っても主役の「エリカ」を演じる近藤結宥花。私は状況劇場の『風の又三郎』を見たことがないが、かつて李礼仙が伝説的に演じたという役、両性具有のようでも年齢不詳のようでもあるエリカ、冥府の入口に立って宿命の風に乗りつつ乗せられつつ、自分自身が台風の目にもなるエリカを引き受けている。語り、歌い、誘い、騙し、茶化されて、殴られて、人肉をむさぼり、吐いて、男に刺され・・・。近藤のエリカは、鋭いカリスマ性で立っているのではない。むしろ、可愛く柔和でさえあるのだが、演技に不思議な奥行きがあって、人としての広がりや大きさを感じさせる。つまり、エリカというアクティブで多面的な難役を、「立つ」というより「広がる」という佇まいで近藤は乗り切ろうとしているように見える。それは新しい「エリカ」像の始まりと言ってもいいのではないか。そして、演じるにあたってこの役者が尽した相当な鍛練、その堆積が一種のオーラになっているからこそ、そんな奥行きも生まれたのだと感じさせる。努力を輝きに変える術を、近藤結宥花は探し当てることのできる役者だ。彼女は眩しかった。
 一時期、詩の朗読を熱心に聞いていた時期があったからか、日本語教師という職業がら異語の響きに日常的に接しているからなのか、私には掛け合いをふと音楽のように聞いてしまう癖がある。そんな耳を持って梁山泊の芝居に臨むなら、「宮沢先生」を演じた大久保鷹の間合いや抑揚は絶妙としか言いようがない。どうしてそんなふうに語れるのだろう・・・と思う。声の個性の違いや緩急の違い、高低の違いはあっても、他の役者たちの科白回しは大雑把でなら一くくりのリズム感でまとめられるように感じる。つまり、非常に劇の「ノリがいい」と言えるのだが、大久保の声はそこから逸脱して、リズムに容易に乗らないで、ぶれたり、ずれたり、はぐらかしたり、けしかけたりしている。だが、それがあればこそ、全体の声の音楽は面白くなるし、ノリの良さも際立ってくる。韓国から帰国して戯曲を読み直したのだが、黙読する脳裏の中で、大久保の声は最も如実に蘇るのだ。
 この韓国ツアーのために久しぶりに梁山泊に戻って来たという黒沼弘己(夜の男)、近童弐吉(死の青年─高田三郎三曹)の存在は、劇のリアリティーを深めるのにどれだけ貢献しているだろうか。唐十郎の戯曲は、読み物としても夢中になる破天荒な面白さで、私などは読み出すとトイレに行くのも面倒になってしまうほどだが、そんな戯曲を演じるのはなかなか困難なことだろうと思う。まして、それにリアリティーや人間味を裏づけることは・・・。黒沼は、嫉妬に狂う「夜の男」のしたたかな暴力性の陰に、脆ろさというよりむしろ儚なさと言った方が的を射るような、繊細な悲しみを忍ばせる。第2幕の終わり、夜の男はエリカをナイフで刺して、「近よるな!この女を刺したんじゃない。胸に宿るあの男を刺したんだ。(略)俺のエリカは死にはしない。」と叫ぶが、それはうそぶいているのではなくて、本当にそんな微妙な刺し方をして、女の息の根を、この男は止められなかったのではないか・・・とも思わせる。近童弐吉が演じる「高田三郎」は、死後の世界の人。幽霊でもありエリカの見る幻影でもある高田は「固い」。死肉が立っているのだから、心の振り幅は狭く、冷たくなっている。そんな冷たさや固さを保ったまま、科白の中にある意味の膨らみや羽ばたきを伝えるのは大変難しいことではないか。近童はそれをなし遂げつつ、第3幕では嫉妬に狂う。死肉が嫉妬するということにリアリティーを持たせてしまう近童弐吉が不思議だった。
 昨秋の東京公演から最も目覚ましく成長したのは「織部」を演じる大貫誉だろう。小道具にアコーディオンを持つようになって立ち姿が美しくなったことが、彼の声に張りを与えたようだ。いや、大貫はツアー中もおそらく成長を続けていると言ったほうがいい。韓国で3回芝居を見たが、大貫は3回目が一番よかった。終幕間際の科白、「読者です!」が何とも鮮烈にテントに響き渡った。ソウル公演の成功が、役者としての力のテコになったのだろう。この役者が自信を持ちはじめると、梁山泊はますます手強い劇団になるに違いない。
 他にも書きたいことはたくさんある。松岡哲永はじめ「乱腐」「淫腐」「珍腐」の三腐人は、彼らが登場するや否や、会場の空気が沸き立つくらいウケていた。三人の軽やかな運動神経、しなやかな柳腰が科白を一層弾けさせていた。「教授」を演じるコビヤマ洋一、「桃子」「梅子」を演じる三浦伸子、梶村ともみの活躍も言うまでもないが、最後にどうしても触れておかなければならないのは、梁山泊が考案したバイリンガル上演法だ。
 この芝居は、科白は日本語と韓国語のチャンポンで演じられ、ところどころ紙芝居のように手書きの字幕も使われていた。つまり、戯曲の重要部分は、韓国語で話したりハングル字幕を見せたりすることによってその意味を伝え、その他の部分はアクティブで補いつつ日本語の響きを聞いてもらうという方法だ。話し言葉と書き言葉、韓国語と日本語を取り混ぜた、今まで経験したことのない、珍しい「二重言語劇」であったのだが、お客さんは違和感を持たずに受け止めていたようだ。韓国語と日本語の文法体系が似ていることが、二すじの言葉の流れが自然に交わるのを助けてもいただろうが、これはまた、新しい上演スタイルではないか。詩や小説など文学の世界で「多言語」を持ち出すと、何となくインテリ臭いというか、方法的になりすぎて血が通いにくい感じを持つことがあるけれど、梁山泊のバイリンガルは全く別の回路から、現場の知恵として出現している。
 そして、最後に、このような画期的な舞台を取りまとめ、演出した金盾進。梁山泊は各地で体力、知力、感性のすべてをフルに使って燃焼するが、恐ろしいことに、程なくむくむくと肩が動き、頭が上がり、あっという間に蘇生するのである。何という生命力だろう。このような怪物的な力動のまさしく「核」になっているのが、この演出家である。幕切れに飛揚する飛行機の衝撃は言うまでもないが、1974年に書かれたこの戯曲を現代に引き寄せる演出だった。公演が跳ねた後、「韓国のお客さん、凄い反応ですねえ」とかけ寄った演劇関係者らしい人に対して演出家が返した言葉が忘れられない。


朝鮮日報掲載記事
ビックリする演出で祖国の観客に感動の土産
12年ぶりに韓国巡回公演を行う劇団・新宿梁山泊の金守珍氏
 1993年5月、ソウル・ヨイド河川敷で公演された「人魚伝説」という演劇は開始の場面から歓声が鳴り響いた。8名の俳優たちがテントの後方、漢江の水の上をイカダに乗って舞台上に登場したのである。漢江を朝な夕なに見慣れている韓国の演劇人達もいまだかって思いつかない、果敢な演出を行った人は、劇団「新宿梁山泊」率いる在日韓国人二世の金守珍氏(51)。在日橋胞達の不安な生活を水のイメージに託して表現された「人魚伝説」は舞台中央にプールをこしらえるなど、驚きの場面を提示した。
 そして12年。金守珍と「人魚伝説」を記憶する全国各地の演劇人達が再び韓国へと招請した。この度、韓国に持ってくる作品は「唐版 風の又三郎」。自衛隊の訓練機を乗り逃げした愛人を追い続ける二人の旅人の話である。
“テントを張れる空き地が劇場
“7月22日から9月10日まで、ソウルからミリャン、ナムヤンジュ、テグ、チョンジュ、アサン、ソッチョを廻ります。慌ただしく、非効率的な導線でしょう?
 各地方の祝祭に合わせてみたら、このようになりました。大変しんどい行程ですが、我々を忘れずに呼んでくださっただけでも、ありがたいことです。”公演場所の下見に先の15日に来韓した金守珍代表は地味ではあるが、堂々としている印象を持った演劇人であった。日本で生まれ育った彼は、23歳まで演劇を知らなかった。日本人に負けないためにも空手を学んだこの青年は、76年に在日橋胞達が公演した演劇「鎮悪鬼」(原作金芝河)を観て衝撃を得た。悲惨な生活を笑いに転嫁するその演劇から、民族的な底力を感じた。
 金代表は“冷徹な心の中に初めて暖かい血が巡ったようだった”。と言った。新宿梁山泊とういう劇団名には‘水滸伝’の梁山泊盗賊達のように、現実に妥協しない批判的精神を守るという決意が込められている。金守珍と新宿梁山泊は室内劇場で安穏とすることを拒否する。ビル群だろうが、川べりだろうが、テントを張るスペースがあれば劇場になる。金代表は“街の雑音は時として効果音にもなり、俳優達はその雑音に負けないエネルギーで役を演じなければいけない”と言った。
演出家が直接トラック・クレーン操縦
 公演の最後に舞台の後ろ幕を落とし、劇場の外の世界を見せるのが新宿梁山泊の特徴。 今回も演出を任されている金代表は“舞台の一部がバンと突き抜ける時、観客は夢と現実との壁が崩れるような衝撃を受けるであろう”として、“「唐版 風の又三郎」でも二人の主人公を乗せた飛行機(長さ約10m)が飛ぶのを期待してください。”とほのめかした。
 新宿梁山泊は韓国において、11tトラック2台、4.5tクレーントラック1台、大型バス1台で移動するのだが、金代表もトラックを運転する。飛行機が飛ぶためのクレーン操作も演出家の金代表が直接行う。
●公演のお問い合わせは韓国:(02)352-0766
パク・トンギュ記者
紫テント韓国各地を巡業記録!
  ミリャンは密陽市民広場、密陽江の河原、対岸に嶺南楼が見える芝生にテントを張りました。
ミリャン演劇祭に参加しました。
ナミャンジュはヤンピョン広場のテニスコートにテントを張りました。
International Open-air Arts Festivalに参加しました。夜10時開演。町は演劇でお祭りのようでした。近くで韓国マダン劇や中国の少林寺拳法もやっていました。
  ソウルは汝矣島、漢江の河原にテントを張りました。仕込みは雨に降られて大変でしたが、公演中はお天気にも恵まれたくさんのお客様がいらっしゃいました。二日目三日目には東京から駆けつけた唐十郎さんも出演され盛況の内に幕を閉じました。金芝河さんもテントを訪れ、唐さんとの邂逅を果たされました。
 
  韓国第三の都市、大邸(テグ)ではクモ江の畔にテントを建てました。雨にもかかわらず、たくさんのお客さまに観て頂きました。
初日、大塚聡氏が日本からいらっしゃいました。
  全州(チョンジュ)では、突然、道路に「風の又三郎(パラメ アドル)」の横断幕が現れ、私たちを迎えてくれました。
  全州SORI文化芸術殿堂の駐車場にテントを張りました。全州大学の学生さん達が夏休みにも関わらずたくさんお手伝いにきて下さいました。楽日終演後の打ち上げではチョンジュの皆さんと梁山泊劇団員とで日韓合同の「どっどど〜」を大合唱しました。横浜国立大学室井教授が日本からミリャン、ソウルに続きチョンジュにもいらっしゃいました。
  牙山(アサン)では湖西大学の構内にテントを張りました。大学の学生さん達が大勢お手伝いに来てくれました。
  草束(ソクチョ)では、エキスポタワー横の広場にテントを張りました。草束公演初日は台風の雨風の中を、劇的に飛行機が飛び去りました。韓国ツアー千秋楽はお天気にも恵まれ、たくさんのお客様に暖かい拍手を頂きました。