オーストラリア メルボルン テント公演「唐版 風の又三郎」
南半球の風に乗って「又三郎」が旅に出る!
作 唐十郎/演出 金守珍
2006年12月21日〜23日
メルボルン Birrarung Marr 特設紫テント
●STAFF  
照明 泉 次雄
  宮崎絵美子
古賀裕一郎
舞台美術 大塚 聡+百八竜
殺陣

佐藤正行

振付 大川妙子
劇中歌作曲 安保由夫
大貫 誉
音響 N-TONE
宣伝美術 梶村ともみ(画)
制作 新宿梁山泊事務所
 
●CAST  
教授(元宇都宮少年自衛隊航空分校長)
コビヤマ洋一
乱腐
米山訓士
淫腐
広島 光
珍腐
染野弘考
織部
大貫 誉
エリカ
沖中咲子
夜の男
黒沼弘己
風の商人〜宮沢先生
Matt Crosby
桃子
三浦伸子
梅子
梶村ともみ
死の青年〜高田三郎三曹
川畑信介(武人会)
死の少年
池田実香
女医・尼
渡会久美子
航空学校教官

佐藤正行

航空兵
加藤千秋・森 祐介(武人会)
山村秀勝・小林由尚(武人会)
看護婦・尼
目黒杏理・櫂作真帆(武人会)
南 香緒里(武人会)
大鶴美仁音
劇評
THE AGE, DECEMBER 23, 2006
REVIEWS

Compelling night of theatre from Japanese company
日本からの劇団による魅惑的な演劇の一夜
新宿梁山泊
唐十郎作「風の又三郎(Angel of the Wind)」メルボルンにて
以下はキャメロン・ウッドヘッドによる劇評。

 オーストラリアと日本の文化交流年の一環として、東京を拠点とする劇団新宿梁山泊が市内で「風の又三郎」を上演している。宮沢賢治の同名の児童文学を基にしたこの作品は、テンポが速く、視覚的に見応えがあり、メルボルンの観客が日本の現代演劇界の活気を見る貴重な機会となった。
 影響力のある劇作家唐十郎は、宮沢による風の精と間違えられた男の子の話と、第二次世界大戦中に郵便飛行機を盗み出し行方不明になった飛行士の話を組み合わせた。その二つの話の糸は、より大きな枠であるオルフェウスとエウリュディケの神話の中で結びつく。
 エリカは飛行訓練所から飛行機を盗み出した後死亡した恋人高田の死体を捜すために、暗黒街への冒険に乗り出す。エリカは男の子に変装しているときに、精神病院のオリベに出会い、風の又三郎と間違えられる。 二人は、途中で教授と彼の取り巻きであるミスター錯乱、ミスターエキセントリック、ミスター理不尽や、ミステリアスで不吉な「夜の男」、非行姉妹などの奇妙な人物達に出会いながら、あの世とこの世の境目でもある、月明かりに照らされた街を旅する。
 この超現実の街で、エリカとオリベは人喰いから尼の合唱まで、数多くの危険や素晴らしいものに遭遇し、最後の大掛かりなフィナーレの中、死によって結ばれる。
 金守珍のこの演出は、風の又三郎を魅惑的な劇的カオスに創り上げている。アニメや武術、ホラー映画や戦争の映像などで日本文化に言及し、巧みで、時に辛辣なまでの皮肉を含んだ展開によって、彼は目眩のする夢のような作品へとその質を引き上げた。
 前衛的なセンスがありながら、この劇は強い歌舞伎の要素や、ハイスピードで驚きに富む場面転換、力強い役者による演技を見せる。
 ほとんどの役者はコメディの才能を持っているように見受けられた。いくつかのシリアスな場面は、訳されていなかったか、あるいは字幕装置の不具合によって注意がそがれがちだったからか、公演中もっとも光っていたのはコメディの部分だった。
 なんにせよ、活気のある公演は最初から最後まで観客を楽しませていた。

 
危険:卓越した演劇
トニー・レックが風の又三郎と共に飛ぶ

 新宿梁山泊「風の又三郎」の危険な演出法の兆しは、航空学校の教室に座る数人の神風特攻隊員の出現から始まる。この静かに漂う日本軍の存在感と、そう遠くない過去である戦争で決裂した日本社会と現代日本社会の融合は、ポーランドの作家TADEUSZ KANTORの「Wielopole Wielopole」の中の小隊を思い起こさせる。しかし劇作家唐十郎と演出の金守珍は個人と政治の関係よりも、「西洋」と「東洋」という現代日本が抱える矛盾、万華鏡的なパトスを伝えることに重きを置いているようだ。それは、複雑な物語によって表現されているが、作品自体を混乱させる危険性を持っている。
 新宿梁山泊は「アングラ演劇」を具現化している。その二つの特徴である「ケレン味」と「傾く(かぶく)」(目を引くための大胆な演出と演技)が、めまぐるしく変化する大衆演劇的な場面を進めていく。「夜の男」と名付けられた登場人物が儀式的に他人を鶏で切りかかり、ハゲワシに扮した三人の役者が、観客にお尻を出し、象徴的な「廃棄物」を舞台中央に次々に持ってくる。
 「風の又三郎」は猥雑で浮ついていて、紫のテント内のステージと客席の後ろのスペースまで使い、四方に散らばっている。しかし同時に、真面目でよく統制されたパフォーマンスでもある。それは一見乱雑に見せかける演出と演技によって観客をだまそうとする。しかし舞台上の狂気の根底には、唐の脚本の中にある微妙な意味合い、例えば原始爆弾による破壊の記憶に囚われた天皇制国家である戦後日本、敗北に植民地化された結果西洋と東洋を融合させた経済的「奇跡のこども」になった日本とその衰退と不安感、それらを理解した演出が存在する。しかし西洋でそうであったように、日本でもまたそのような演出は多くが衰退しつつある。
 この悲劇は、耳を失った青年と、飛行機を盗み失踪した恋人の飛行訓練生を捜しにオルフェウス的な下界に下りていった男装の女性の物語によって展開していく。このプロットは日本とオーストラリア人にとって重要な質問を提示する。私たち(オーストラリア人)は、混乱が多く隠蔽された歴史を持つことにより、確固たるアイデンティティーが欠落しているから、説明のつかない罪の意識を持っているのだろうか?
 しかし、脚本はこの視覚的な力作を舞台化するほんの一部分しか担っていない。役者が「風の又三郎」を卓越したレベルに引き上げているのである。彼らは汗をかき、叫び、踊って歌う。彼らは35度の気温の中で、重い衣装を着けながら身体を空間に投げ出す。彼らの演技はなんの束縛もなく血を周囲にまき散らすようである。しかしこれは生々しく混沌とした演出である。だから素晴らしい。「風の又三郎」の視覚的言語は観客の感覚を充満させ、分解するが、劇最後の強烈なイメージにより再構成される。テント後部の壁が崩壊し、実寸大の日本の戦闘機と美しい照明による朝日、そしてその背景にメルボルンのエキシビジョンストリートの夕方の渋滞が広がっている。あなたは永久に記憶に残る光景を見ている。
 そしてついに、回転するプロペラ、ターボチャージエンジンの爆音とともに、飛行機は見えないクレーンによって視界から消え去る。そう、実際に遠くに飛んでいくように見えるのだ! 落ち着き、笑顔で再入場した役者は、観客からの賛美を受けた。結果的にはわれわれ観客がこの素晴らしい劇団の名人芸に対し頭が下がる思いをするのである。