新宿梁山泊第33回公演

作・洪元基/翻訳・馬政煕/演出・金守珍

 新宿梁山泊と韓国演劇界との絆は強く、'89年に小劇場としては初の韓国三都市公演を行いました。日本文化禁止の中で、全編日本語での上演は、今のような友好ムードは全く無い緊張した状況の中で行われました。その中で私たちを懸命にサポートし、現在に続く日韓文化交流の基礎を創った一人が今回の作家、洪元基(ホン・ウォンギ)氏です。
 '02年ソウル芸術祭で「戯曲賞」「作品賞」をダブル受賞した「エビ大王」を日本ではぜひ新宿梁山泊での公演をと託され、今回、韓国での公演を行った後、日本公演を行います。

2006年
韓国 居昌(コチャン)演劇祭参加 812日(土)〜14日(月)
東京 新宿FACE 913日(水)〜18日(月)
大阪 ウルトラマーケット 929日(金)〜101日(日)

東京公演、大阪公演ともに、好評の内に全公演日程終了いたしました。
ご観劇くださった皆様、ご協力くださった方々、
本当にありがとうございました。

CAST   STAFF

エビ大王

黒沼弘己 照明 泉 次雄
パリテギ 沖中咲子   宮崎絵美子+ライズ
キルデ夫人 渡会久美子 舞台美術

大塚 聡+百八竜

日直使者 コビヤマ洋一 振付 大川妙子・蔵重優姫
月直使者 三浦伸子 殺陣 佐藤正行
彗直使者 閔 栄治(SANTA) 衣装 近藤結宥花
金 守珍 劇中歌作曲 大貫 誉
梶村ともみ 音楽 閔 栄治
八道軍 米山 訓士 音響 N-TONE
管理人 endy 宣伝美術 姜 尚仁(デザイン)
ヒカル 川畑信介・秋元英明(武人会)   梶村ともみ(画)
馬別使 佐藤正行 制作 新宿梁山泊事務所
火徳

海童須美寿(劇団1980)

   
一つ派 大貫 誉    
青派・長男 外村和雄(武人会)    
紅派・次男 加藤千秋(武人会)    
右派・三男 森 祐介(武人会)    
左派・四男 山村秀勝(武人会)    
中派・五男 小林由尚(武人会)    
中派・六男 染野弘考    
末将勝 広島 光    
青娘 櫂作真帆(武人会)    
紅娘 蔵重優姫(SANTA)    
三娘 平屋さゆり(武人会)    
四娘 目黒杏理    
五娘・息子 南 香緒里(武人会)    
末娘 池田実香    

【ものがたり】遠い古代のアジア、ある王国の王/エビは世継ぎの王子に恵まれない事で、神を呪い、最後に産まれた7番目の王女を川に捨ててしまう。自らの血脈の存続の為に固執するあまり、国政を顧みず、娘たちは権力争いの果て国は分断され、民は戦と疫病で死んでいく・・・。捨てられた王女は自らの素性を知らずに成長したが。運命のいたずらで、父親であるエビの子供を産む為に後宮へと送られるが・・・。 現世と来世を行き来する死神たち、神に死期を忘れられた為、永遠に生きる老人、人生の本来の価値を見出せず悲劇を招く王、その中で、未来に託した希望とは・・・。
  アジア版リア王ともいうべき叙事詩を、神話と歴史の境のない古代アジアの自由な感性で表現した作品。
 エビが来る!               洪 元基(ホン・ウォンギ)

“エビが来るよ、エビ!”と、言うと泣き声を止めた子供がいた。子供は育ちながら、エビが起こした戦争の数々を聞いて学んだ。そのエビがまた攻め寄せると言う噂で恐怖に震え、うんざりするくらい防衛演習をし、そのエビに対する憎悪を育てた。
 子供が二十代の青年になったある日、その国のエビが死んだ。エビを引き継いだ新たなるエビ国のエビがまた数多の血を流した。青年はエビの軍人になって、敵対するエビの軍隊と対峙した。エビ国の「青春の任務」を終えた青年は、演劇を志した。舞台こそ世の中の全てだと信じ、演劇に身を捧げていたある日、敵側のエビが死んだという、驚くべき情報を耳にした。そしてあのエビの息子があのエビを引き継いでもっと恐ろしいエビになったという怪談話を聞いた。
 三十代にして家長になった子供は、自分が今まで「エビの世の中」に生まれ、かつ暮して来たことを悟ることとなる。絶えざる抑鬱と怒りのなかで、そのエビの正体を掘り下げ、「エビ大王」と言う戯曲を書いた。
 四十代になって「エビ大王」は公演され、子供は作家として認められることになる。
 その「エビ大王」が偶然と必然の縁によって隣国に紹介された。思いがけぬ熱い呼応と公演要請を受け、想像もできぬ事が起ったのである。つらつら考えるに、その「エビ」は、ある国だけの特異現象ではなく、実は世の中どこにでも、また誰にでもあったのである。
 また、省みるに、その子供自身もいつのまにかそのエビを模倣しているのかもしれない。私的な欲望、独善、偽善で人間の尊厳と共存を妨げている世の中のあらゆるエビ達! その腐った頭! それを撲殺する斧! 
 子供の心はまだその峻厳な斧をしっかり握りしめている。

 新宿梁山泊の「エビ大王」は、かって交わした約束の実現です。 
 梁山泊の舞台はいつも私に演劇に対する熱情を呼び覚ましてくれたし、いつかは同じ舞台を共にしたいものと念願していたし、また彼らと約束をしていた。
 海峡を越える「演劇の友情」を分かち合えるよう先導してくださった呉泰錫先生に感謝いたします。「エビ大王」が勇躍、海外に羽ばたけるよう橋渡しをしてくださった大笹先生率いる「日韓演劇交流センター」のみなさんにも感謝いたします。金守珍兄貴を含め新宿梁山泊の兄弟達を力強く抱きしめたい。この梁山泊のエビ大王は、海峡を越えて大洋を越えて、世界中どこでも行くのです。決して錆びない、朽ち果てない、演劇の熱情の斧をしっかり握りしめて… 
“エビが来る! 凄まじい梁山泊のエビ大王が来る!”

2006年 夏   (翻訳 馬 政煕)

韓国 居昌演劇祭参加のご報告

The 18th
KEOCHANG
International Festival of Theatre

居昌(コチャン)演劇祭のパンフレットです。
去年「唐版 風の又三郎」で韓国七都市テント興行をした時の舞台photo入りで紹介されました。

とても大きな半野外劇場でしたが、たくさんのお客さんが観に来て下さり、連日大入り満員となりました。ご家族連れの方も多数お見受けしました。
3日間、お天気にもめぐまれました。
日本と同じく暑くてムシムシしていましたが、開演の21時30分頃にはだいぶ過ごしやすくなっていました。
作家 洪元基さん自ら開演のアナウンスをして頂きました。全編ほとんど日本語で上演しましたが、上手奥にハングルの字幕を映しました。
劇評
「シアター・アーツ」2006冬号 舞台時評11
所有のない唯一者

 時に作品こそが時間や空間を越えて、いまを最も鋭く抉りとる瞬間がある。新宿梁山泊が上演した『YEBI大王』(作=洪元基 演出=金守珍 新宿FACE 9/13〜18)は、まさにその言葉のためにあるかのような舞台であった。
 作者である洪元基が書いた物語は、朝鮮の古代、青銅器から鉄器時代へと移行していく頃、エビという王が死に際に自分の子に男子が一人もいないことから、世継ぎたる息子を作ろうとすることから始まる。王を黄泉の国へと迎えにきた三人の使者が、息子が生まれない理由を七番目に生まれた女の子を捨てたからと教える。そこで王は民の命と引き換えに、あらゆる圧政や国が荒廃していくのも厭わずに、その子と自分の子が産める女を探すことに奔走する。
 そこには晩年において権力の持続と存続に固執するあまり、それまでの名声などあらゆるものを手放して醜態をさらす王の姿とともに、王位を継承するためには王の「息子」でなければならないという、根拠はなにもないままに機能し続ける装置としての「息子」という言葉が何度も繰り返し叫ばれることによって、増殖化して舞台を包んでいる。しかし、それは単に父権的な古代の朝鮮の世界をモチーフにした歴史物語が、舞台となって上演されているだけではない。
 これをいまの日本でもほぼ同時期に巻き起こっていた天皇の皇位継承問題、男系か女系かという時事の流行と重ねて見てしまうことは、たとえどれほど安直であり飛躍しているといわれようが、あまりに示唆的だったといえる。それは、もし日本の演劇史に、とくに黒テントなどをはじめとして風の旅団などの天皇を扱った革命劇の系譜とでもいうべきものがあるとするならば、なにもリテラルに天皇を扱うことだけが、天皇制への問題を含めた舞台でないことを示している。もちろん、それは90年代以降の天皇論、坂手洋二や野田秀樹、平田オリザも含めて、いま天皇を描くということといま天皇制というものがどのような位置にあるのかということと関係している。
 もちろん、天皇という制度が国家や資本の上に浮かび上がる表象の一つであることは確かである。しかし、同じように日本という場において演劇というものが成立してしまう問題を提起するならば、共同体的としばしば揶揄される日本の演劇が、いかに閉じこもった殻から抜けだせるか、もしくはそこに亀裂を入れるかということにおいて、今もって「始原のもどき」として共同体を維持、存続させるための方法の一つとして利用されている天皇制を、完全に過ぎ去ったものとすることはできないはずである。
 確かに現在のプチ・ナショナリズムの流行のなかで、天皇の発言が時として中庸的であるということはできる。リベラルやレフトがその言葉によって反論の足がかりが得られるという側面もある。もちろん、それは両面的であり、そこで天皇という装置が問題視されることがなくなり、象徴として自明視されたものであるとされてしまうことは、さらに問題が増幅されることだろう。天皇という問題をカッコに括ってしまうことが、渡部直己が『不敬文学論序説』で対象における描写の問題として取り上げたことから、一歩も前へ進んでいない、むしろ後退しているということになるだろう。
 それに対して今回の舞台の内容は、これが日本の状況を含めた共通の構造をもつ普遍的な問題として、今もって我々の目の前にあることを気付かせる。それは、60年代以降の世代が背反的に孕んだ天皇と革命を舞台で上演することが、左翼的なロマンチシズム、いわばニューレフトの悪しき側面に依拠してしまうことを、いかに避けるかということを金守珍の演出は取り入れているからだ。
 あの世の使者の一人であるコビヤマ洋一などの三人の役者たちが演奏する音楽は、スピード感のある舞台を作りだし、内乱や争乱のシーンの活劇部分は、三方を客席に囲まれた舞台でアクロバットな殺陣を取り入れ、そこにナルシズムが耽溺する要素はない。金守珍の演出の特徴ともいえるスペクタクルの有効性とは、たとえドゥボールが言うようにスペクタクルによって見ているものの思考を攫おうとも、そこで耽溺できる場所を作らないということである。この物語の壮大さは、だからこそ、大きな物語、それはポストモダンが批判したような意味ではなく、状況を掴み取るような別の次元でのスペクタクルがある。それは唐十郎の系譜としてアングラ演劇の要素を引き継ぎながらも、自身の方法をもっている。
 大王であるエビは、あの世の使者からお前の息子を生める女は、親からも夫からも息子からも見捨てられた女だと予言される。そして内乱の果てに王としての実質的な権力をなくし、血統という言葉だけを拠り所にする名前だけの存在となる。しかし、その名前が生む象徴的な権力によって鉄を作り出すことができる新興勢力を味方につけ、新しい大王から座を奪い返す。この新しい大王もかつてエビが、その父を殺した因果関係で繋がりあっているのだが、その時に予言どおりに何もかも失った、自分の息子を生むことが出来る女を見つけ出す。
 そして物語の最後に、その女が実は同時に自分が捨てた七番目の女の子であることを知ったエビは、自分の愚かさを悟る。このとき王は、跡継ぎが息子でなければならないという呪縛から解き放たれ、王を動かし続けた「息子」という言葉の覆いを理性によって楔を打ち込み、その娘に後を託して死んでいく。
 この簡単なあらすじだけでも、日本の天皇を特権的に見ることをできなくさせる。もはやそこに巡る歴史は、日本という特定の場所だけに限らず構造としてどこにでも偏在するものとして現れる。それは世界史的な文脈のなかで現れる、帝国の周辺に派生する亜周辺という地政学的な類似の共同体がもつ規範に対して、似ていることによって亀裂が入れられた瞬間を物語っている。
 そして王が娘を選んだという事実は、今もってその規範が残り続ける日本の状況を切実に突きつける。国家のなかに残存する共同体的なフィクションが、ときに浪漫主義的に右派、左派を問わず形態を変えて現れ続けるということは、それこそ演劇史的にも天皇劇そのものへの批判も含まれている。その意味で金守珍の新宿梁山泊は単にアングラという歴史を継承しているだけではない。それは新宿梁山泊という劇団の位置にしかできないことであり、それを批判的に今へと現前化させているのである。だからこそ、その舞台は新宿梁山泊という集団がもつ歴史の必然的な偶然によって、その時に上演されたというべきではないだろうか。

高橋宏幸
Takahashi Hiroyuki

 

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